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サッカーJリーグ・川崎フロンターレと、TVドラマをこよなく愛する男のブログです。
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【批評】ドラゴン桜(05年7月クール)
 この作品の特徴は、「偏差値30台のバカ高校から現役東大合格」という明確な「ゴール」が設定されている中で、それを目指して山下智久・長澤まさみら生徒達が努力していく様子を、受験テクニック的なものを次々と繰り出しながら、徹底的に「軽く」見せていることである。この作品全体に漂う「軽さ」は、塚本連平を始めとする演出陣の、MMJっぽい(この製作会社はかつて、テレ朝月8枠で学園ドラマをよく作っていた)良くも悪くもお手軽な作りの演出によるところも大きいが、秦建日子の脚本なども合わせて考えると、この作品は作り手全体が、ライトな作りを目指して作っていたであろうことが伺える。それは例えば、主演の阿部寛が社会の現実を突きつけるような、おそらくこれまでの「学園ドラマ」ではタブーとされていたと思われるようなことを決めゼリフ的に言うことで、物事が比較的「簡単に」動いていったりすることとか、もっと端的に言えば毎回ほぼ必ず「受験テクニック」的な内容を織り込み、しかもそれをCGなども使いながら、バラエティ番組におけるVTRのような作りで見せたりするところに現れているが、これらの作り方は、それが全編に渡って徹底されていることで、1時間を通してとにかく「見やすい」ドラマを作ることに成功していた。

 ただ、この作品は「軽さ」の中にも、阿部寛の社会と自分との関係に対する冷静な分析や、今の教育や大人の「建前」に対するアンチテーゼとしてのメッセージが織り込まれていて、決して「浅い」内容の作品とはなっていない。残念ながら、生徒達の周辺環境、特に親との関係については陳腐なものが多かったため、こうした「深み」の感じられる内容は、主に阿部寛の出てくる場面に限られていたが、それでも、主演の阿部寛のさすがの演技、人生の渋みを知った上で、それでも自分なりの希望を捨てないという役どころの、豪快な強さと計算された緻密さ、さらにほんのわずか織り込まれる暖かさというバランスの絶妙な使い分けの力もあって、大変魅力的なものになっていた。「軽さ」との両立という意味では、少なくとも一定程度満足できるものになっていたと言えるだろう。

 しかし、前述の生徒達の親子関係のように、やはり「軽さ」が「浅さ」に転化してしまっていた場面も散見された。それは物語のクライマックスにおいても感じられ、単調な受験の合否を追う展開に変化をつけるためであろうが、長澤まさみの母親である美保純が倒れることで山下智久が腕を骨折したり、中尾明慶が弟の策略で腹痛を起こしたりと(ちなみに、この「優秀だが性格の歪んだ弟」は物語上完全に便宜的な存在であり、最後も結局「東大に不合格になった」というだけでその後何のフォローもされていなかった。こうした登場人物の存在そのものが作品に対して減点材料となるものだ)、試験を受ける上での「障害」を作為的に作り出すことで話を盛り上げようとする姿勢は、あまりに安易なものと言わざるを得ない。

 この作品、ジャンルとしてはいわゆる「学園ドラマ」でありながら、メインテーマは教師と生徒の関係や、生徒の内面ではなく、あくまで「東大合格の成否」である。従って、必然的にそのための学習や試験といった、ドラマとして表現しづらいシーンが多かったのだが、それをライトな作りでエンタテインメントとして作り上げた脚本・演出を始めとする作り手のセンスは、高く評価できる。ドラマとしての完成度には物足りなさもあったが、見ていて「楽しめる」作品だったこと、そして明確な「ゴール」が達成できるか否か、という点で「先が気になる」作品でもあったことは、この作品の印象を大変良いものにしている。

支持率:22.5% 評価:B
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【批評】いま、会いにゆきます(05年7月クール)
 序盤の映像の美しさは、それだけで感動できるほどのもの。はかないファンタジーの世界を見事に作り上げ、一気に物語に引き込むだけの力を持っていた。

 ただ、そうした映像のアシストを受けたはずの物語がいただけない。「世界の中心で、愛をさけぶ」を見ても分かるように、映画化された原作=2時間程度で収まる分量の物語を、3ヶ月1クールの連続ドラマとして描く場合、ポイントになるのは物語の豊富化の成否である。友人や親との関係を丹念に描いて成功した「世界の中心で、愛をさけぶ」に対して、この作品では、特に中盤以降、ミムラと成宮寛貴の「過去」に頼りすぎ、かつその「過去」の物語が陳腐な「初恋物語」であったため、作品に停滞感が漂う結果となってしまった。一方で、記憶をなくして甦ったミムラと、成宮寛貴がイチから関係を再構築していく様子の描写は、ごく貧弱で通り一遍の印象が拭えず、三田佳子演じるミムラの母の存在も、成宮寛貴へ疑惑の目を向けることで、彼がミムラを守ろうとすることの困難さを強調するためのものに過ぎず、三田佳子の目から見たミムラとの「絆」はほとんど伝わってこなかった。総じて、飯野陽子と篠崎絵里子の脚本は、力不足が目立ったと言わざるを得ない。

 冴えない脚本に引きずられるように、当初は極めて高いクオリティを維持していた演出も、安易な「自然」の映像に頼るなど、物語の「世界」を作り出す努力の不足が現れ始め、レベルダウンが目に付くようになった。一方でこれは、メインである平野俊一以外の人間が演出を担当する機会が多かったことも原因の一つであろう。それがこの作品の思わぬ視聴率の低迷によるものかどうかは定かでないが、この作品におけるサブ演出の面々(山室大輔・大岡進)は、作品のレベルアップに貢献していたとは言いがたい。

 主演のミムラ・成宮寛貴の2人は、「小学生の子どもを持つ親としては明らかに若すぎる」という、キャスティングの時点でのハンデを抱えながらも、むしろカップルとしての初々しさを前面に出すことで、奇をてらわぬひたむきさを見せていて好感が持てたし、そのことは、内容そのものは陳腐だった回想シーンを演じた黒川智花・福本有紀も同様だ。
 前述したように、この作品が、素晴らしい映像によるアシストを受けながらも、「名作」になり損ねたのは、物語の豊富化に失敗したことによる部分が大きい。陳腐な「過去」に固執するよりは、ミムラと成宮寛貴が、「もう一度恋をしていく」展開を丹念に描いた方が、より物語の世界観が生かせたのではないか、と私には感じられてならない。その意味で、「いま」をもっと描いて欲しかった、ということが、この作品に対する感想として強く残った。

支持率:25.5% 評価:A
【批評】女王の教室(05年7月クール)
 小学6年生の子供たちに容赦なく社会の「現実」を突きつけ、冷酷に罰を与え、突き放す。天海祐希演じるこの作品の主人公、阿久津真矢の振舞いに対しては、近年のTVドラマに対しては珍しいほどの賛否両論が巻き起こった。ただ、私から見れば、この議論は的外れのもののように感じられる。この作品に対する批判の多くは、阿久津真矢の振舞いに対するものであり、そしてそうした言動を「TVドラマとして放映するのは許せない」というものがほとんどであった。だが、これらの批判は、2つの点で大きな間違いを犯していると言わざるを得ない。一つには、主人公の言動を、作り手は全て是として描いている、という勘違いで、作品冒頭でも「悪魔のような鬼教師に小学6年生が戦いを挑んだ1年間の記録」と述べられているように、この作品の主題は、明らかに主人公の存在に対応する中での子供たちの成長にあり、その過程では、必ずしも主人公・阿久津真矢の言動を一方的に正しいものとしては描いていないし、また、子供たちに対する「壁」となる、という意味では、必ずしも正しくある必要性すらない。そうした作り手の意図を理解せずに「主人公の振舞いは正しくない」と言っても、作り手としては「ええ、そのとおりです」としか言いようがないだろう。

 もう一つの間違いは、こちらの方がより大きな問題だが、このように、自分が「正しくない」と考える言動を、描写することそのものを否定することの誤りである。これは表現の自由そのものに関る問題であるため、明確に述べておくが、どのような表現技法であれ、それが合法的なものである限り、表現することそのものを否定することは、近代憲法が保障する基本的な人権を維持し続ける上で不可欠な、表現の自由を侵すものであり、許されるべきではない。このことは、我々の生きる社会の基本的な価値を守るということであり、決して揺るがせにしてはならないことである。

 こうした表現技法への賛否両論よりも、TVドラマの内容への賛否、あるいは評価を語る上で、より本質的な問題は、表現技法そのもの、この作品で言えば阿久津真矢の子供たちへの振舞いそのものではなく、その表現技法を用いて何を描こうとしているか、ということである。この点、「鬼教師との戦いの中で、子供たちが成長する様を描く」という、この野心的かつオリジナリティある内容を、しかも原作のある作品がこれだけ幅を利かせている2005年現在においてオリジナルの脚本で描いたこの作品の根本的な姿勢を、私は高く評価したい。しかもその内容も、天海祐希を徹底した「悪」の存在として描きながら、その「悪」との対決の中で成長していく子供たちの様子を、主に志田未来に焦点を当てながら段階を経て描いており、また、物語がクライマックスを迎えたところで天海祐希が実は「悪魔」ではなく「人間」であり、かつ常に子どものことを考える素晴らしい「教師」である、ということが分かる、という展開も、ドラマティックで良く練られたものである。脚本を務めた遊川和彦の、さすがはベテランというべき手腕には、素直に脱帽である。

 また、大塚恭司メインの演出も、天海祐希が現れた途端に画面に青みが差す演出など、天海祐希の「悪魔性」を見ている側にも強く意識させる演出が効いており、物語を効果的に煽っていた。「共犯者」などでもその胎動が見られたが、日本テレビの演出陣には、自らの力で新たに局の「伝統」を作ろうとするような、新しい息吹が感じられ、引き続き期待したいところである。

 この作品が成立するためには、天海祐希の存在は絶対不可欠のものであったことは、今更私があれこれ言うまでもないだろう。笑顔一つ見せない冷酷な教師の、人間離れした悪魔的な存在を演じきるには、演技力はもちろん、美貌や長身といった容姿まで含めて、天海祐希という俳優の全存在が必要であった。また、この作品における、志田未来を始めとした子役達の好演の貢献もまた、小学6年生の内面的な成長を描くというこの作品の主題を表現するために、必要不可欠なものだった。天海祐希と戦うことで「強さ」を身につけた志田未来の、意志の強い目を見たとき、私は、もはや彼らを「子役」という概念で括ることが適切ではないのかもしれない、という意を強くした。

 ただ、この作品には一点、明確な失敗があった。それは第7話、天海祐希によって追い詰められた少女が、夜中の教室で刃物を持って暴れる、というシーンで、それまでばらばらだったクラスの一同が、志田未来らの呼びかけに応えてなぜか全員集合し、しかもその事件の「解決」を共有することで一気にクラス全員が結束する・・・という展開である。これは明らかに、志田未来らの地道な努力によって、クラスが一致団結する、という結論に至るまでの過程をすっ飛ばした脚本の凡ミスであり、このことによって、その後、一致団結したクラスが天海祐希に立ち向かう・・・という、クライマックスに向けた展開に説得力がまるでなくなってしまった。この作品に批判すべき点があるとすればこの点であり、人間の感情が、さしたる理由もなく簡単に動いてしまうというのは、ご都合主義的との批判を免れ得ないところであろう。

 ただ、こうした失敗を踏まえてもなお、この作品のオリジナリティと、天海祐希との1年間の「戦い」を経て成長した子供たちが、天海祐希の下を巣立っていく様の感動は、高く評価すべきものと私は考える。TVの連続ドラマの歴史の中で、優れた作品の一つとしてこの作品を位置づけることに、私には何の躊躇もない。

支持率:26.6% 評価:A
TVドラマの評価基準(ドラマ批評を読む前にお読みください)
私は、過去HP上で3ヶ月1クールのTVドラマの批評を行っていたとき以来、以下のようなやり方で評価を行っています。

「支持率」・・・文字通り、私がそのドラマをどの程度「支持」しているかを示す割合。簡単に言うと、そのドラマに対する私の中での評価を視聴率に換算するとどれくらいか、ということを表したもの。

SSランク:支持率35%以上のドラマ。記憶に一生残りつづけるよう      な、私にとっての(以下同様)「傑作」。

Sランク:支持率30%以上のドラマ。その1年を代表するような「名     作」。

Aランク:支持率25%以上のドラマ。そのクールを代表する「秀       作」。

Bランク:支持率20%以上のドラマ。1時間見て素直に楽しめる「佳     作」。

C+ランク:支持率17%以上のドラマ。連続ドラマとして合格点の       「良作」。

C-ランク:支持率13%以上のドラマ。一応、ドラマとして最低限の      ラインは超えている。

Dランク:支持率10%以上のドラマ。問題点多し。ただ、良い所が無     いわけではない。

Eランク:支持率10%未満のドラマ。論外。あるいは、ドラマの内容     にどうしても私が賛成できない場合。


・・・今後、このblogでTVドラマについて評論する場合、引き続きこの基準で行っていきますので、よろしくお願いします。
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